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「当事者ではないその出来事にどれだけ向き合うことができるのか」
わたしたちは多くのことを自分には関係のないことと思えるから保てる精神があります。しかし、2つの戦争が続いているという事実があります。本を読むこと、イスラエルからドローンを購入しようとしている日本の企業に抗議をすること、関心の寄せ方は人それそれですが、わたしは設計行為というかたちで2国を想像します。
遠くの出来事に関心を寄せた、「どこかではないここ」と「ここではないどこか」のための卒業設計です。
インターネットなどのコントロールが容易なメディアとは違い、建築は「遅さ」や「重さ」がコントロールされにくいものとして働きます。建築は形を残すことによって、知覚が上乗せされたメディアとしてあらわれます。長崎を舞台に設計した5つの映画館は、戦争問題やジェノサイド対して沈黙を続ける日本で、わたしたち国民がどのように向き合っていくかのひとつのメディアになり得ると考えます。
長崎は彫刻公園と言っていいほど、平和記念像をはじめとし、現在も侵攻を続けているロシアを含めた各国から寄贈された彫刻で蓋をされている。被害者側からの展示と、沈黙している彫刻たちは戦争が“今ここにはないこと”を強調しており、今起きていることに対しても思考停止している。
原爆資料館と原爆投下中心地碑がある公園の間に差別や戦争問題、社会問題を中心とした5つの映画館を設計する。

長崎市平野町
ImageA あるべきはずのものがない、中心が抜けている家形。
家形の屋根の連続。しかし、中心が抜けており、屋根としての役割がキャンセルされている。あるべきはずのものがないことであることを想像する。また、中心から左右対称であることは、映画が複製品であることを表象している。イメージは壁を介した別の空間でも平等に共有されている。
ImageB 取り残されている壁
映画を見終えた時、自分だけその世界に取り残されているような感覚になるときがある。ぐるりと一周した壁はどの場所でも存在し、取り残されている感覚を引きのばす。
ImageC 意味の亀裂とヒエラルキーの反転
わたしたちは映画のなかで「意味の亀裂」を発見し、物語ることができる。映画はガラススクリーンに投影され、垂直なスクリーンが透明性を持つことで、水平的な奥行きがうまれる。正面かと思われる金属パネルが反復された壁の階段の先には何もない。
imageD 歴史の一点のみをのぞいていることを自覚する壁
直径3cmの穴から映画を見る。二重に設けられた窓は、トリミングした風景や彫刻に注目させる。
ImageE 同時に投影される7つのスクリーン
GLとの連続によりどこからでもアクセスできる1階部分。視覚的な情報はアウラを喪失し、平等に開かれているが、同時に放映されるスクリーンは全体を見ようとしてもひとつしかみることができない。
タイトルの「だから、わたしに身体を与えてください」はフランスの哲学者であるドゥルーズの著書であるシネマ2から引用している。映画は演劇などとは違い、役者からある役が切り離され、身体の不在によってスクリーンに投影される。正しさが押し付けられていく中で、ある立場から一般化や抽象化されて本当のことがよくわからなくなっている。「〇〇について」という限定的な思考に抗うためには、知覚が上乗せされた建築により観客に自覚的な身体を与え、役者のようにある役に分身したり、ある役に重ねたりする想像力を後押しする。
「見たまま」の情報を得ることはとても困難であるが、映画館的な形式や形態を意図的に壊し、断片化した視覚的イメージを建築を介して慎重に読解することで、垂直なスクリーンは面的な「窓」としてではなく、奥行きを持ったかたちで現れる。スクリーンは直立しているが建築を介すことで私たちが得るイメージはそれに純着しない。 長崎から映画を「読むこと」をはじめる。
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