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また、きらきらしたほうばかり見てる Once More, Drawn to Gentle Shimmers

ブックデザインにおける芸術性の研究
亀田慧流
学科・領域
視覚デザイン学科
コース
伝達デザインコース
指導教員
天野 誠
卒業年度
2024年度

 

 

 

 私は、アートとデザインの違いについて考えてきた。デザインは基本的に問題解決を目的とし、ビジネスと結びつくことで利便性や経済効率が重視された結果、ロジックに基づいた機能的なものである必要があるとされている。しかし、私はその商業的な側面や、そこに生じる消費行動に疑問を覚える。私が、デザインに対して抱いてきたリスペクトは、制作者の技量や執念、作品そのものの美しさ、そして生活に豊かさをもたらす力にある。

 現代の消費社会では、供給が人々の要求や欲望に応えるのではない。供給によって、人々の欲望そのものがつくられ、デザインは消費行動を促す手段として利用される。消費されるために物は、記号になる。物自体ではなく、それに付与された意味やステータスが消費され、人々は終わりのない消費の波に飲み込まれてしまう。商品には必ず、利益を得るための商業的な側面があり、商品を通して多くの利益を得ようとする過程で、ぞんざいな消費のされ方や、嫌悪感のあるブームが横行することがあり、文化が終わろうとしている空気を感じる。どのメディアも、消費の加速は促すが、流行する前から大切にしていた人たちのほうは、決して見ようとしない。この状況に、私は文化の衰退や消費主義のあり方に対してやるせない気持ちを抱いている。ビジネスにおけるデザインは、確実にその一端を担ってしまっている。

 デザインの本来の目的は、問題解決によって消費行動を促進することである。しかしでも目的が「消費」であっても、そこで評価されるのは「消費者の生活にどれだけ豊かさを与えることができたか」ということであってほしいと感じる。これは私がデザインに対してリスペクトを感じる部分である。
 哲学者の國分功一郎は、自著の中で、イエスの発言に、ウィリアム・モリスの思想を発展させてこう語る。『人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。』
 ここで示される「バラ」 は、私にとっては美術や映画、音楽、文学、そしてデザインなのだ。
 本作品は、ビジネスにおけるデザインが消費社会を加速させる役割を果たす中で、商業的なデザインとは異なる、ロジックを超えた叙情的な要素を含んだデザインを再評価する試みとして制作された。

 

 昔から、恋愛や結婚が人生で最も重要な関係とされる風潮に違和感を抱いてきた。幼い頃から関係を築いてきた親しい友人がいるにもかかわらず、大人になるとその中の誰でもない恋愛対象の一人をび、一生を共にすることが前提とされることに、不条理さを感じていた。小津安二郎の「秋日和」には、『私たちの友情が結婚までのつなぎだとしたら、結婚なんてつまんない!』というセリフが出てくる。その通りだと思った。
 
 恋愛感情を伴わない、女性同士の親密で特別な関係性のことを「ロマンシス」という言葉で表現する。私が自身の友人に向ける感情に非常に近いものだと感じ、この感情を作品に昇華させたいと考えた。
 世間には「友人より恋人(特に結婚相手)の方が優先されるべき」という風潮がある。そこには、伝統的な家族観や社会構造、メディアによる価値観の強化といった文化的な背景が関係していると感じる。しかし、私は、自身の友人を何よりも大切に想っている。深く傷ついた私のことを気にかけて、夜を明かすまで電話を繋いでくれていた友人の生活が、常にあたたかいものであるように願っている。彼女以上の深い関係性を望む存在をつくることを拒んでしまうし、彼女がいつまでも私のことだけを見ていてくれればいいと考えてしまう。私のロマンシスに関する感情は、不格好で複雑だが、同時に美しさを伴っている。幼さと切って捨てられそうな感性が、この作品の中では、たしかなきらめきになるのだ。

 

 消費社会が求める合理性や効率性がすべてではないように、恋愛や家庭だけが人間関係の中心であるべきとは限らない。 造形行為と人を想う感情は本質的に共通し、どちらもロジックでは説明しきれない感覚や直感、個人の価値観が深く関わる。 叙情的なデザインが人の心に触れるように、友愛も社会的な価値観を超えて私たちの感情に深く影響を与える。
 デザインの芸術性を再評価することと、友愛を大切にすることは、どちらも自分の信念に基づいた選択をすることにつながる。私はこれからも、私だけの信念を決して見逃さないように、手放さないように生活を続けていく。
 世間には無意味だと切り捨てられてしまうもの、役に立たないと見なされるものが、私にはどうしても、きらきらとかがやいているように見えるのだ。どれだけ歳を重ねても、私はふと気づいたらいつも、きらきらとかがやくものに心を奪われている。