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膜構造を利用したアダプティブリユース建築の研究

耐震補強を用いない既存建築の持続的更新手法の提案
中川 桜
学科・領域
修士課程 建築・環境デザイン領域
コース
建築・インテリアコース
指導教員
与那嶺 仁志
卒業年度
2025年度

はじめに

 本研究は、⽇本における既存建築ストックの更新が直⾯している構造的・制度的課題を背景に、膜構造を⽤いたアダプティブリユース建築の新たな更新⼿法を提案し、その有効性を理論的整理および設計実践を通じて検証するものである。現代社会は、地球規模での環境問題、資源制約、⼈⼝減少や社会構造の変化といった複合的課題に直⾯しており、建築分野においては、そのライフサイクル全体を通じた環境負荷の低減が強く求められている。とりわけ、建設時点で排出されるエンボディドカーボンの削減は、運⽤段階の省エネルギーと並ぶ重要な課題として位置づけられている。⽇本における建築の更新は、⽼朽化した建築物を解体し新築する「スクラップアンドビルド」を前提とした⼿法が⻑らく主流であった。しかしこの⽅法は、解体による廃棄物の発⽣や新築に伴う資材製造・施⼯による環境負荷の増⼤を不可避に伴う。⼀⽅で、少⼦⾼齢化と⼈⼝減少が進⾏する現代においては、新築需要の縮⼩と既存建築ストックの蓄積が同時に進⾏しており、既存建築を前提とした更新戦略の構築が環境的・社会的合理性の両⾯から不可避となっている。

 

1.研究⽬的

 既存建築の構造的・空間的ポテンシャルを活かしながら⽤途や価値を更新するアダプティブリユースは、環境負荷軽減、⽂化的記憶の継承、都市の持続的再⽣を同時に担い得る有効な⼿法として注⽬されている。しかし⽇本においては、耐震安全性の確保が制度的に強く要請されるため、既存構造体の耐⼒や剛性を⾼める「耐震補強」が改修の中⼼となりやすい。その結果、壁や補強ブレースの増設や既存フレームの補強が⽣じ、建築の⾃重増加や空間構成の制約のため、将来的な⽤途変更や再更新が困難化となる問題が顕在化している。すなわち、⽇本のアダプティブリユースは「安全性の確保」と「柔軟な⽤途変更」という⼆律背反的課題を内包していると⾔える。本研究は、この課題に対し、従来の耐震補強の更新⼿法とは異なる構造的視点から捉え直し、既存建築の持続的な再価値化を実現することを⽬的とする。

2.研究⽅法

 改修における設計判断を⽐較・評価するため、本研究では、物質的介⼊の度合いを⽰す指標として「介⼊の重量」を導⼊する。これは、耐震補強を単なる性能回復の技術としてではなく、材料の量・配置・介⼊⽅法に関する設計判断の質として捉えるための視座である。この視座に⽴つことで、耐震性能の確保は構造体の増量に限定されるものではなく、荷重の分散や建築全体の軽量化、⽀持経路の転換といった多様な操作を通じて達成することが可能となる。すなわち、耐震補強は「建築が成⽴する⼒の関係性を再編する⾏為」として位置づけられ、本研究ではこのような設計⾏為を「⽀える」と定義する。

 以上の理論的整理を踏まえ、本研究は軽量性・可逆性・⼤空間性に優れた膜構造に着⽬する。膜構造は引張⼒を主とする構造原理により⾃重を抑えやすく、⽀持構造と外⽪をレイヤーとして分離できるため、既存躯体への付加荷重を最⼩限に抑えながら空間更新を実現できる可能性を持つ。また膜材は耐⽤年数を前提とした交換が可能であり、構造体と外⽪の寿命を分けて考えることで、建築を単⼀の完成形として固定化するのではなく、更新を内包した開かれたシステムとして成⽴させることができる。

 第2章では、アダプティブリユースの概念と価値を環境的観点から整理し、欧州と⽇本の実践を⽐較することで、⽇本における更新の制度的・構造的特性を明確化した。欧州では最⼩介⼊や可逆性を重視し、更新を前提とした設計が体系化されているのに対し、⽇本では耐震補強を中⼼とした重い介⼊が主流であることを確認した。

 第3章では、膜構造の成⽴と発展の経緯、構造原理、材料特性、法制度との関係を整理し、軽量介⼊としての技術的基盤を明らかにした。あわせて、筆者が実施した膜構造パビリオン《H/overlap》の設計・制作を通じ、膜構造が完成された形態を与えるものではなく、⽀持条件と張⼒の関係を調整し続けるプロセスそのものが構造デザインであることを実証的に検討した。

 第4章では、Hochschule Trier留学時における設計演習および⽇本の建築を対象とした設計提案を通じて、膜構造を⽤いたアダプティブリユースの有効性を具体的に検証した。

 

3.具体的な実証例

 Hochschule Trier留学時における設計演習ではでは既存建築に付随する形の仮設劇場の設計を⾏なった。本設計演習は膜構造を直接⽤いたものではないが、既存建築を所与条件として読み替え、介⼊を分節化し、新旧の役割を再配分することで更新を成⽴させる設計態度を、実践として検証した。

 広島市⽴中央図書館・映像⽂化ライブラリーを対象とした設計では、第2章および第3章で整理した「耐震改修を⽤いないアダプティブリユース」の考え⽅を、より明確かつ体系的に具体化した。既存 RC 躯体を⻑期的に保存される基盤と位置づけ、その外側に膜構造による軽量な環境緩衝層を付加することで、既存建築への付加荷重を抑えながら、耐震的合理性、環境性能の向上、空間的拡張性を同時に成⽴させている。

広島市⽴中央図書館の設計操作

  1. 既存書庫(7層):

閉鎖的な空間特性を活かし、映像上映ボックス群として再編。積載荷重を軽減し、床を3枚撤去することで、減築による躯体の負担低減による耐震性の向上。

  1. 2階コリドー:

建築の南北軸を主要動線として再解釈し、中庭空間を活⽤するために軽量の膜屋根を架けることで半屋外のエントランス空間として更新。

  1. 新築部との関係:

軽量化して耐震性能を⾼めたRC 既存建物に超軽量膜構造を⼀体化させて建築を創る。また、軽量鉄⾻の新築部と動線的に連続させ、回遊性と眺望性を確保。北側の既存バルコニーを活かし、展望デッキを新築部との接続部とする。

これらの設計実践を通じて、本研究は、耐震補強による構造体の増量に依存せず、減築・軽量化・役割再配分・膜構造の付加といった操作によって既存建築を「⽀える」更新が可能であることを、具体的に⽰した。

4.分析・考察

 以上の結果から、耐震安全性の確保は、必ずしも構造体の増量を伴う補強に限定されるものではなく、建築が成⽴する⼒の関係性を再編する設計操作によっても達成可能であることが⽰された。膜構造を⽤いた軽量介⼊は、既存建築の構造的・空間的ポテンシャルを維持しながら、⽤途変更や再更新を許容する点で、⽇本におけるアダプティブリユースの新たな⽅向性を⽰している。また、「介⼊の重量」という視座を導⼊することで、改修における設計判断を環境的価値と接続し、⽐較可能な形で評価できる可能性が⽰唆された。本研究が提⽰する「⽀える」という更新戦略は、建築を⼀度の改修で完成させるものではなく、時間の中で変化し続ける存在として捉える設計態度であり、⼈⼝減少社会における建築のあり⽅に対して重要な⽰唆を与える。

おわりに

 本研究は、膜構造を媒介として既存建築の成⽴条件を再編することで、⽇本におけるアダプティブリユースの可能性を拡張する設計⼿法を提⽰した。これは、環境負荷低減と耐震安全性、さらに将来的な柔軟な建築利⽤を同時に成⽴させる更新戦略であり、耐震補強を前提としない既存建築更新に対する新たな視座を提供するものである。

展示用パネル

新築図面_平面図,断面図