MENU

函館西部地区 風景と記憶の継承

ー風景の言語化と継承の手段の提案ー
竹髙亜海
学科・領域
建築・環境デザイン学科
コース
環境計画・保存コース
指導教員
津村 泰範
卒業年度
2022年度

私は地元北海道の函館市西部地区という小さな場所が好きです。

失われる風景

しかし、足を運ぶ度に変わる風景を前にして無力さを感じていました。ものは経年変化を続け、記憶は月日の流れとともに薄れる、当たり前のことではあるのですが、私は建物、人、風景、それらの思い出が消えてしまうことに寂しさを覚えました。風景が変わることは仕方のないことで重要なことですが、真っ白になってしまったものはもう二度と戻りません。町の方とお話をした時、そしてその思いを抱いているのは私だけではないと知り、これをきっかけに風景と記憶を残すお手伝いがしたいと考えました。

西部地区に対してできること

西部地区は観光地として有名ですが、それだけでなく光の当たっていない部分、人々が暮らすことで作られた風景を含めた西部地区にも価値があります。そして風景は西部地区に住む人にしか守ることができないと考えました。一部の住民は自ら地区を守るため動き出しています。自分らしく、この町で表現することが風景を継承することにつながると考え、私にできることに取り組むことにしました。

それは継承するきっかけとなれるよう、風景を言語化し一人でも多くの住民に価値を言語化し伝えることです。

風景の言語化をするため歴史と住む方のお話からこの地区の風景のできてきた足跡をたどりました。開港や函館大火、産業、経済成長などを契機として町の風景は変化して行きました。開港場として諸外国との文化交流の窓口となり、北海道の文化と日本の伝統文化と外国の異文化が融合され独自の個性と魅力が作りだされました。外国公館や公会堂が建ち並び、 政治、経済、文化の中心地となり、外国人居留地や領事館や教会などが所狭しと集まった異国情緒豊かな町並みが形成されていました。

この地区の人々はなんとなく住んでいるのではなく、古民家を改修しすみ継ぐ人や大火の時代に増えた一棟二戸住宅を選んで住む人など、風景を守りつつ、自分らしく、自分という形を表現して住む人々でした。

西部地区の風景は文化 時代 災害 人 それら全てを受け止め 形を変えながら今も受け継がれ風景を成しています どんな形も受け入れ 居場所をくれる心の広さこそが魅力であると考えます。
「寛容さが風景として残る」という言葉で表現します。

しかし、全てを言語化することはできませんでした。


この風景は言葉にできない、置き換えようのないものです。
しかし、風景を継承するという目的を果たすべく、言語化しきれなかった部分をも私なりに表現するべきだと考えました。

継承したいという気持ちだけではどうにもできないこともある 残したくても、残せないかもしれない
ただ受け入れるだけではいけない
無くなってしまえばもう戻らない
形を残すことは難しくとも 記憶という形ないもので継承することは可能だと考えます。

一瞬の出来事は次の瞬間には過去となり記憶となり、記憶が積み重なって忘れてしまっても、奥底からまた思い出せるように そのきっかけとなる記録の提案です。

言葉足らずの私を補い、言語化できないものを私の代わりに言語化できる唯一のものが写真で、私の表現の一つです。忘れてしまわないように、いつか思い出せるように、願いを込めて生きている町の様子を記録しました。
展示にある記録をお手にとっていただけますと幸いです。