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あかるい窓

撮影による自己理解と回復 他者との繋がりについて
新木 彩
学科・領域
視覚デザイン学科
コース
伝達デザインコース
指導教員
長瀬 公彦
卒業年度
2023年度

目に見える実際の風景と 見て感じている心の風景は 似ているようで違う

あのときからずっと 取り残されている

いま、なにを見て、感じているか

自分自身にとって 正直な写真を撮ろうと思った

撮影と現像を繰り返す

捉えどころのない自分の輪郭に 触れられるのだろうか

光をたたえた あかるい窓 

その向こうへ 歩いてみる

 

自分をとり戻していくために、自分自身を保つために。私にとって撮影とは、そのような意味を持っています。

2019年の冬に自宅で倒れ、半年間病院で生活をしていました。しばらく意識が戻らず、搬送当時のことは覚えていません。体が動かず、そこから上半身が起こせるようになっても、下半身は動かないままでした。

リハビリを行い車椅子に乗れるようになった頃、家族に写ルンですを持ってきて欲しいと頼んだそうです。写真から見るに2月か3月ごろでしょうか。その内の数週間だけ、撮影をしたようです。転院を経て退院しても、体の回復とこころの回復のペースはズレていました。歩けるようになった反面で、自分の内側から浮かぶはずのものは、浮かんでこないままでした。思考は曇ったまま、感覚は鈍いまま、という生活が続いていました。

2022年になったある時、当時の写ルンですを現像に出しました。少しでも自分の手がかりを掴もうとしたのかもしれません。そこには私の知らない私の目線が映っており、今どうしようもない自分を何とか離さないようにと、再びフィルムカメラを手に取りました。偶然撮れた、ブレやボケ、色の滲みが特徴的なもしかしたら失敗とも取れる写真が、「今の私自身を映している」ように思え、「目に映る実際の風景と見え感じている心の風景は、似ているようで違う」のだと気づきました。そして後者こそが私が求めている写真であり、その正直な写真を取り続けていれば、今は何も掴めない自分というこころに近づくことができるのではないか、と思い至りました。そこから写真を撮り、考えること、生活を守っていくことなどを並行して行っていました。

2019年のあのときから時間が止まってしまったような、自分だけとり残されているような感覚が──2019年の私と、今の私という2つの感覚が──あります。そのこともあってか、この大きな時間の流れの、どこに自分がいるのか、時々わからなくなります。できたら離さないように、手を握って、一緒に歩いていきたいのです。そう思えるようになるまでに随分と時間がかかってしまいました。

失ったものは戻りません。自分を取り戻すことは、バックアップを復元するものでもありません。あのときの全てのことを想うと、心の中で星になって燃えています。写真を撮るとき、光を感じます。それは病院で見た鈍い光であり、星々が燃える光でもあります。そのどうしようもない感情も、かなしみも、今ここにちゃんと存在する自分も、全部写真に預けると、暗く淀み靄がかかった世界を少しだけ照らしてくれるようでした。

あまりにも多くの人に迷惑をかけ、それ以上に多くの人の助けがあり、私はいまここにいます。

「足がある。動くのだから、どこまででも歩いていける。」

そしてカメラもあるのだから、この先はきっと大丈夫だと思っています。

私は、友人が送ってくれた「スーパーに陳列されたポン酢の写真(私のあだ名は”ぽん”である)」を見たとき、遠く離れていても、時間が経っても、それを越えて抱きしめてもらえたような気持ちになりました。また、ある人の展示写真には「わたしもここにいました。だからあなたも大丈夫です。」とこの数年間の私に、小さな灯りを分けてもらったような感覚になるような、そういった体験をしました。現在の私の写真は、私写真であり、まだ誰かに差し出せるようなものではないと思っています。今後の目標として、心をひらくように、写真も差し出せるようになりたいと考えています。