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現代の人間関係の表現
古江 菜々子
学科・領域
美術・工芸学科
コース
美術表現コース
指導教員
遠藤 良太郎
卒業年度
2020年度

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 家路は一生のうちに何度も繰り返し歩く道だ。家路を繰り返し歩く行為は経験として記憶され、身体に蓄積されていく。そうして肉体が経験した世界の形が、無意識下の夢の中においても形成される。私たちは夢の中でさまざまな道を見たり歩いたり運転するが、原始的な“道”の始まりは人間や動物がある地点を移動した際に発生する、動作の結果として生じた地形の変化、力を加えて変形したら元の状態には戻らない “可塑性”の性質を持った土の上だったから生じた産物であり、反対に、夢や想像、無意識の世界というのは物質を持たないため、動いても地面に移動の痕跡が残ることや地形が変わるような物質同士の相互作用が働かず、副次的に道が発生することはない。つまり、夢や想像、無意識下に登場する“道”とは物質界から持ち出してきた物質界の概念であることがわかる。

 私たちは物質から解放された場所であっても、目の前にあるものを道だと認識した瞬間、それは道として存在し、道の上を歩いてしまう。道を踏み外して歩こうが“道”自体の意識からは逃れることはできず、無意識は物質界の構造から抜け出すことは難しいと言える。

 言葉を意味から離し、記号として分解していくと線の集まりでできている。線という言葉は輪郭線、境界線、基準線といった、線を引いて何かを分けるイメージで使われることが多いかと思われる。私たちはそれぞれ自分の中に基準となるラインを持っており、その線を軸に物事を判断することがあるのではないだろうか。
 また冒頭の道の話に戻ると、初期構想の舞台が街だったためGoogleマップでさまざまな場所の上空写真を眺めていたときに、どこも家と家とが線(道路)でつながっている構造上の共通点を見つけた。道でも、言葉でも、記号でも、この“線”を根底とする考え方があるような気がして、わたしたちの思考の中に育まれている“線”の可視化を試みた。

 わたしたちはあらゆる物体や現象を言語という記号に変換することができる。記号は他者に何かを伝達する用途だけでなく、記号を使って法や時刻を定めるなど目に見えない社会規範の骨組みをも形成する。
  今回、作品をゲームという形式で作ったのも、ゲームにはプログラミング言語という、記号による骨組みでゲーム空間が生成できる特性があるからだ。
 コントローラーは自分の指先と同化し、自分の意思とゲーム内の動きが連動することでゲーム空間内へと自己を拡張し投影できると考えた。
 そしてあえてゲーム内のマップを、単調に、パターン化させることで、何度か歩くうちに全体像が掴めるようにしながら 自然と“道”というものをプレイヤーの指先から身体的に刷り込ませるようにした。
 このゲームにはキャラクターが存在しない。プレイヤーは壁との距離感をうまく測りながら進むことになる。ゲーム内の壁にぶつかった瞬間、自分は壁にのめり込むことができない物理的な身体があることを自覚する。この空間内において、壁(外部)を認識する行為は自分自身を認識する行為と同等であり相互関係で成り立つ。そしてその壁には、このゲームを裏で動かしているプログラミング言語が書かれている。これは言語、記号によって自身や他者の存在を認識したり存在の証明が行われることへの表現だ。

 研究テーマである「現代の人間関係の表現」から、共生と分断を現在のインターネット社会を踏まえて考えた。インターネットは他者との新たな関係性が生まれる可能性と、異なる価値観の人たちが分断していくのを助長する可能性とを併せ持っている。
・フィルターバブル(意:インターネットのフィルター機能、「フィルターに囲まれた世界」に閉じ込められた状態の比喩であり、まるで泡の中に包まれたように自分が見たい情報しか見えなくなること)
エコーチェンバー(意:閉鎖的空間内でのコミュニケーションを繰り返すことによって、特定の信念が増幅または強化されてしまう状況の比喩)

                                                 (用語説明の引用:Wikipedia)
これらが思想による分断を助長するのではないかと考えた。

 作品の中に何度も出てくる壁は、閉鎖的な空間内でのコミュニケーションによる特定の思想の増幅と、壁同士が向かい合う分断をイメージしている。

 このゲーム空間を制作しながら感じたことは、インターネットないしはこの世界全体が、文字という記号に包まれた閉鎖的なフィルターバブルではないかという疑問だ。

 そして壁と壁の間は、境界線の間である。物事に線が引かれて分かれるとき、それはだいたいふたつに分かれる。善か悪か、正か誤か、yesnoか、好きか嫌いか、男か女か、正常か異常か。そしてそれらはどちらかを選択しなければいけない二者一択であることが多い。本当に線を引くことができるのだろうか。 言語が空間や概念を形成する限り、この記号の構造から、線の構造から抜け出すことは難しい。