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二所山神力院史

祖母の家の調査と記録
三上京子
学科・領域
建築・環境デザイン学科
コース
環境計画・保存コース
指導教員
平山 育男
卒業年度
2020年度

新潟県南魚沼市に建存する母方の祖母の家は、修験道の寺院である二所山神力院です。

 

▲神力院前の山脈 春

 

神力院と私
 祖母の家である神力院には幼い頃からよく訪れていました。春は祖母とフキノトウやタラノメ、ゼンマイなどの山菜を採り、夏は姉と近くの小川で遊び、秋は黄金色の稲穂に囲まれながらトンボを捕まえたり、冬は1階を埋めるほどに積もった雪で遊びました。幼少期の多くの思い出は神力院にあります。今回の卒業論文という場をかりて、神力院への恩返しとして、調査を行い記録として形に残したいと考えました。この卒業論文は私から神力院に対しての感謝の形です。


修験道とは

 修験道とは、神道や道教、仏教、密教など多くの宗教が交じり合い成立した宗教です。

 

修験道の修行者「山伏」
 修験道では、山を神聖視しており、厳しい環境下である山の中で暮らし日々修行を行います。そのため修験道の修行者は山に伏す者、「山伏」と呼ばれています。

 

山伏の法衣
 山伏は独自の法衣を身にまといます。皆さんの中でもこの法衣は見たことある人がいることでしょうか。山伏は天狗の姿の由来になったという説があり、天狗の服装と山伏の法衣は酷似しています。

 

現在に続く「里山伏」
 かつて山伏は山中を生活の拠点として、山の中で暮らしながら日々修行を行っていました。そして、村人から祈祷の依頼があると下山し、また山中の修行に戻るようになります。時代が下ると、村人たちとのつながりが強くなり、人々の救済を中心に活動するようになり、拠点を山から里に移し、里に定住し、ある程度の期間を決めて山に修行へ行くようになりました。このような山伏を「里山伏」と呼び、この形が現在まで続いています。

 


山伏の活動と役割

 山伏の活動は幅広く、厄払いや安産祈願、葬式などの人生における祈祷や、薬草を調合し薬を作る医者としての役割、気候の予報をし作物の育成に関する役割など、多くの活動を行います。

 すべて源であり、かつ死後の世界とも考えられていた山岳地において修業を行い、それにより霊力を身に着けて人々を救済する山伏は、里に住む村人たちにとって頼れる存在でした。


 

▲秋

 

 

 



新潟県南魚沼市

 祖母の家がある新潟県南魚沼市は現在でも多くの修験道寺院が残る全国でも珍しい地域です。この地域は周辺を山に囲まれ、山の恵みにより日本一と言われるコシヒカリを作っています。このような地域性から山を神聖視する修験道が根強く信仰されたと考えられています。



修験道の山「霊山」

 南魚沼市には修験道が修業を行う山である「霊山」が存在します。この地における代表的な修験道の霊山は「苗場山」「八海山」「巻機山」です。

 


霊山での活動

 この山では現在でも山伏により、山開きや火渡りなどの活動が行われています。

 

南魚沼市における修験道の寺院建築
 修験道の寺院建築について、調査を実施しました。南魚沼市の修験道の歴史や活動についてはいくつかの研究が発表されていますが、寺院建築については従来の報告がないため、祖母の家である神力院と現在でも交流のある寺院について調査を行うと、平面形式は4つの形態に分類できました。



 1つ目は完全に住居から本堂が独立したお堂の形の快慶院、2つ目は本堂を中心に両脇に部屋がある左右対称の近世において一般寺院の形の快蔵院・大林寺



 3つ目は4部屋の奥に本堂がある改築した修験寺院に多い形の宝城院・大崎院・三宝院



そして4つ目は本堂と1部屋のみの形となる神力院でした。


 この4つの形態から里山伏の寺院は、山伏らにとって必要最低限の本堂と1部屋をもつ神力院の形から、信徒の増加によりたくさんの人々を招き入れるために本堂をいれ計6部屋ある快蔵院・大林寺の形へ、そして時代が進むにつれ信徒が減少し、4部屋の宝城院・大崎院・三宝院の形へ改築が行われ、現在では、お堂のみ快慶院の形へ変化したと考えられます。

 

 

▲冬

 

 

 


二所山神力院

 私の祖母の家である二所山神力院は、南魚沼市山谷に所在します。二所山とは山号で、山を神聖視する修験道の寺院は山号が寺院の名前の前につきます。




神力院の年間行事

 神力院の本堂で行う年間行事には、火を焚く護摩焚き、仏舎利に模した団子を配る団子撒きなどがあります。団子撒きで配る団子はすべて手づくりで、前日に住職と祖母が二人で米粉から作っています。



神力院の建物

 現在の神力院の建物は1部2階建てで、本堂は茅葺に鉄板を被せた入母屋造りです。1階は宗教活動を行う本堂と水回りを中心とした居住空間で、2階はプライベートな4部屋から構成されています。



屋根裏の構造

 本堂の屋根裏に上り小屋組の調査を行うと、サスの先端は梁に刺さっておらず、雪の重みで軒先が下がらないようになっており、サスと小屋梁の接続部分は杓子枘とするものでした。




建築当初の形

 壁や柱、屋根裏の構造から、建築当初は本堂と1部屋の庫裡と、それらをつなぐ廊下のみという、里山伏にとって必要最低限の質素な平面形式に復原することができました。



神力院の建築年代

 そして、屋根裏の構造や虹梁の彫刻絵様などから、建築年代は1700年後半と推定できました。神力院が寺院を開いた年が1776年とする記録が残っているため、現在の本堂は1776年から現存していると考えられます。1700年代後半は、南魚沼市に多くの山伏が訪れているという記録があるため、神力院の初代住職もこの時に、この地に訪れ定住したと考えられます。



神力院の現在までの歩み

 つまり、1700年代後半にこの地に訪れた神力院の初代住職は三国山脈を目の前に見ることができるこの地に本堂と1部屋の庫裡のみ神力院を建てたのです。本堂と庫裡のみの質素な生活を送りながら、山で得た力と知識をもって、祈祷を行い、時には医者として里の人々を助けてきました。そして、時代が移り、住職が結婚し、子どもができると本堂と1部屋の庫裡のみの建物に、水回りや部屋など増築が行われ、現在に至ると考えられます。


 今回の研究では、祖母の「なんでこんなに豪雪で田舎の場所に寺を建てたのか」という疑問に対し、山の様々な恵みを受けて生活していたこの地域だからこそ、ここに修験者が棲み付き、その生活が現在まで続くと考えられると、私なりの回答が出すことができました。

 そして、私にとってこの研究を進めていく上で一番うれしかったことは祖父の事を知ることができたことです。祖母や叔父・母や周辺寺院の住職から祖父の話をたくさん聴いたり、アルバムで祖父の顔を見たり、祖父について多くのことを知れた1年間でした。私が祖父と会ったのは1度だけで、一緒に映った写真は一枚もありません。祖父は私が生まれてすぐにこの世を去りました。そんな祖父が私に唯一残してくれたものが「京子」という名前でした。この卒業研究では私の名付け親である祖父のことを知ることができ、とても楽しく調査することができました。