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WHO OWNS THE MISTRANSLATION?

写真としての生成画像に与えられる時間と存在について
内海裕菜
学科・領域
視覚デザイン学科
コース
表現デザインコース
指導教員
山田 博行
卒業年度
2023年度

 

 

 写真が客観的なものだと言われるのは、一枚の画の中のすべてにピントを合わせた景色を写すことができるからだろう。私たちが身の回りの景色を見るとき、視線を動かさなければ最初に焦点を合わせた一点以外はずっとぼやけて見えるままである。一度にすべてを見ることはできない。動きというのは時間を伴うものであり、動=時間であると言っても過言ではないほど密接に関係している。そして動き、時間が存在するということは、そこに空間が存在することも意味する。何の空間もなしに動きも時間も存在することはできず、それぞれがそれぞれに依存して成り立っている。これは写真が動き、時間、空間のどれも持ち得ていないことを表している。写真の中には動きも時間も空間も存在することができないのである。

 しかしながら、写真を見た時私たちはその写真が撮られた当時の光景を、ある人は音や香りまでも思い出すことができる。史実としての写真よりも私的な写真にそれは多く感じられるだろうが、そのように写真が記憶を想起させることができる理由が、先に書いた「写真が動き、時間、空間のどれも持ち得ていない」からであると考えている。動きも時間も空間もないということが、見る人の記憶が介入する隙間となる。それが仮に存在しない光景だとしても。

 その隙間こそ写真が写真たる所以なのではないか。写真が写す真実とは、鑑賞者の内にある記憶や想像である。写真が提示する画を一人ひとりが自身の言語に翻訳し、世界を拡張していくと考えると、それが誤訳であったとしてもひとつの真実となると考える。 

カメラの始まりとも言えるカメラ・オブスキュラは、ラテン語で「暗い部屋」だ。現代の暗い部屋とも言えるPCで私が撮影した写真から生成拡張されたこの画像も、誰かの誤訳によって写真となることができるだろうか。