失われた自然(じねん)の行方
自然とは?
突然ですがみなさん。
「自然」という字をなんと読みますか?
「しぜん」と「じねん」
という読み方があります。
そしてこの二つ、実は考え方が違います。
でも、どうして違うのでしょうか?
例えば昔の暮らしの中の「水を汲む」「火を焚く」という動作にも、
(じねん)という考えは根付いています。
今でいう「自然(しぜん)」ともっと一緒に暮らしている感じ・・・?
一方現代の暮らしは、「蛇口をひねる」「スイッチを押す」それだけで水も出るし火も点きます。
暮らしが便利になっていく中で、「自然(じねん)」を意識せず暮らせるようになりました。
そして、「自然(しぜん)」の方がよく意識されるようになりました。
まるで「自然(じねん)」は失われたみたい。
でも、本当に失われたの?
そう思ったことがこの研究の始まり。
研究調査奮闘期
暮らしは確かに変化したけど、「自然(じねん)」って、探せばどこかにあるんじゃない?
まずは現代を生きる私自身の暮らしの中にある「自然(じねん)」を探してみることにしました。
実際の記録(総集)
「自然(じねん)」の実態
記録その他調査等の結果から、現代版「自然(じねん)」の糸口を探った結果、
○「自然(じねん)」は生活の中にある
○「自然(じねん)」は意識しやすいものではない
日常生活にあっても意識しにくいからこそ、「自然(じねん)はどこへ行ったんだろう?」と、
探すことさえ難しくなってしまったことがわかります。
現代版自然(じねん)に迫る
「自然(じねん)」を感じる共通点には「一体感」という感覚がありました。
一体感には「何と何の」「私と何かの」という二つ以上の対象がありますが、
この「○と○」の境界を曖昧にするものがあるから、「一体感」は得られます。
そしてこの境界(バウンダリー)の間にあるもの、曖昧にするものを
「バウンダリーオブジェクト」と言います。
「自然(じねん)」のカギはこの「バウンダリーオブジェクト」にあるということがわかりました。
現代で「自然(じねん)」とどう向き合う?
私たちが暮らすまちの中に、どんなバウンダリーオブジェクトがあれば、
人と、まちと、暮らしと、一体でいられるのだろう?
パタンとして挙げてみます。
私が考える場面(パタン)
求!自然
最後に、みなさんにお聞きしたいです。
みなさんの好きなこと、暮らしの中に、「自然(じねん)」はありますか?
【学生へのメッセージフォーム】から、ぜひ!教えてください。
私が考えるパタンのある、思い浮かんだまちの風景
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